CLANNADは人生


Fateは文学。
鳥の詩は国歌。
『CLANNADは人生』。

「CLANNADは人生」という言葉があります。
ネットではいろいろな意味の取られ方をしていますが、CLANNADが発売してすぐさまクリアした後ぐらいからこの言葉を使っていたような気がする僕が、ちょっといろいろ書いてみようと思います。


まず、はじめに「CLANNADはどういったおはなしか」ということを説明する必要があります。
進学校に通うもののそこにうまく馴染むことができず、授業をさぼったりする不良の少年「朋也」が、体調を崩したことで留年をした少女「渚」と出会い、また周りの個性豊かな仲間たちが巻き起こす様々な騒動にも巻き込まれる形で、それまでの自堕落した生活とは異なる高校生活を送ることになる。
これがCLANNADのいわゆる”学園編”です。
そして、
高校を卒業した朋也は渚とともに歩むことを決意するが、厳しい社会に、今までのルールが通用しない社会に飛び出し、その荒波に揉まれることとなるが、やはり様々な出来事がおこり、家族そのものを見つめ直すことになる。
これがいわゆる”AFTER編”です。
ネタバレがあるのでこれが精一杯ですが、まあ、こんな感じのお話です。

で、よく言われるのが、
「CLANNADは人生」というのは「俺の人生はCLANNADだ!」という解釈、なのですが、これはちょっと違うと思います。
僕はCLANNADはとても好きな作品ですが、それは自分の人生そのものかといえば、それは違うと思うんですよね。
確かに「こういう人生を送りたい」と思わないこともありませんが、そこのところ、僕は僕です。
取って変われるわけでもありませんし、自由が欲しいです。

では僕がどういう意味合いで「CLANNADは人生」を用いるかというと、こうです。

”CLANNADは人生を描いた素晴らしい作品である”

こういう意図で使います。

そもそも、この「人生」は何を指すかといえば、僕はこのAfterを指すと思うんですよ。
学生生活の話だったら「青春」ですよね。
でもそれとは違う。

Afterでは、主人公の朋也が渚と家族になるわけなのですが、そこで社会の荒波に揉まれることになるんです。
さっきまで、学生生活をのうのうと送っていたのが、社会に出るとこうなるんだと。
突き付けられたのは、現実以上に現実的な、とんでもなく厳しい現実でした。
プレイ当時僕はまだ高校生でしたから、本当にその衝撃は大きかったです。
これでもかというほど、苦しい現実が続いていくのです。
そして、家族のあり方というのも、並行して考えさせられるんですよね。

普通の家庭を持って、普通に仕事をして、普通の幸せを感じて、普通の人生を送って。
それがどんなに難しいことか。
突き付けられたのは、たぶんそれだと思います。

最近は「車輪の国、向日葵の少女」など、人間ドラマを描く作品も増えてきていますが、当時はそんな作品は決して多くなく。
たぶんエロゲだからということもあるのでしょうが、ここまでリアルなテーマで、ここまでの人間ドラマを描いた作品って、当時はなかったのではないでしょうか。
CROSS†CHANNELのようなSF設定もなければ、水月のような幻想的な話でもない。
思いつくのは家族計画くらいです。
2人の人間が、真正面から向き合って、共に人生という道を歩いていく過程を描いた作品というのは、なかったと思うのです。

だから、僕はその部分を「人生」として称賛するのです。


CLANNADと言って前面に出てくるのは、9割方「学園編」の話です。
正直、その話題のほうが話しやすいからだと思います。
だから、ゲームを知らない人にとってみれば、「こんな萌えキャラがたくさん出てくるゲームが人生とは…」と思う方も、少なからずいると思うのです。
しかし、人生と主に形容される部分は、学園編ではなくてAfterです。
ゆえに、そこに温度差が生じる、というのは明白でしょう。



こういう話は作品をやったやってないの話に結びついてしまうのですが、正直、千差万別だと思います。
やった人の中でも、どういうスタンスでやっていたかでも、だいぶ考え方は違うと思います、人間ですから。
ただ、「CLANNADは人生」という言葉がおかしいものなのか、ギャグなのかといえば、違うと声高高に言えます。




いま、アニメで「CLANNAD After」が放送されています。
実のところ、Afterとは名ばかりで学園編でやり残した所をまだやっているところなのですが。
ちょうど来年頃になれば、僕がしきりに言っていた、そのAfterの部分が描かれることになると思います。

その時に、ある程度の人に「CLANNADは人生」を理解してもらえたらいいんじゃないかなと、そう思います。


執筆 2008年10月14日
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